『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
〜プレリュード〜


●一番の感想は (maaさん)
●キーワードは「SEE」 (ぶろんさん)
●もう見るべき物は無かった (maaさん)
●これは凄いです (ぶろんさん)
●犠牲は痛みを伴う希望 (maaさん)

>『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はどうでした?
>ありゃあ〜トリアーの最高傑作じゃないかしら
>宗教批判?までも含めると三層位に重なってましたよね

そうですね〜、一番の感想は、
よくもまぁ、音楽劇仕立てにしたものだと感心したって事でしょうか。
特にラスト近くのあのシーンまで歌い踊りながらっていうのは凄いですよ。
こんな処は一筋縄ではいかない、ひねくれもの (←誉めているんですよ! 笑)
の彼らしいですよね。
ミュージカルと現実世界の2面構造も面白いですよね。
私としては、随分前に劇場で観たきりの「奇跡の海」
の方が感情移入しやすかったし好きですけど
やっぱり、どちらも宗教色がとても強いと思ったんですけどね。
自虐的にさえ見える行為も、善と言うか、愛の深さを物語っているし
もちろん観客に向けて、貴方の言う愛はこれほどの物かと
問うているんでしょうけど........
というのも、愛の対象の姿をはっきりさせていませんよね。
極論すれば、死に値する相手か、又、死を賭ける程の内容かも
綿々と綴ってはいないし、一向に問うているように思えなかったんですよ。

問題は、自分自身の愛の深さ、それだけだと言っているんじゃないかと思いましたね。
やっぱり彼女の目線はかの神々しき主の審判にのみ向けられていると......。
(叉又宗教、良く分かりもしないのに、いい加減な事書いちゃいました。)


キーワードは「SEE」だと思ったからその視点で見てました はたして目は見る器官なのか? 何をどこまで視ることができるのか? 人が歌う/踊る ってことは どういう時/事 なのか? とかね 目の見えなくなった彼女が頭巾を嫌がるのは 目が見えている人の精神状態 つまり盲目に引き戻されることを恐れる 頭巾を外した目のみえない彼女は 心眼でみるって事になるでしょ? ってことは 神は自身の中にあって他人の悪行は問わない、裁定は自身が下す。 命を賭けて(自殺行為とも思えますよね?)輪廻を断つ とも思える。 かの宗教とは相容れないのじゃないか?と 思ったわけです 眼は本当に見る器官なのか! この映画で何を見ましたか? と 観客に問うている気がしました。
もう見るべき物は無かった。 彼女は唯一の現実以外、見ようとはしていませんでしたね。 そして自分の観たいものを見ていた。 もう、すでに"うつせみ"を映す瞳を必要としていなかった。 そして、ブロンディさんのおっしゃる通り、彼女の中に神がいて 自身の行為(犯罪)の底には 彼の悪行に対して、救済の心情があったような気がしたのです。 これは私の願望だったのか、又は見間違いかな〜? >命を賭けて(自殺行為とも思えますよね?)輪廻を断つ とも思える。 >かの宗教とは相容れないのじゃないか?と 思ったわけです 「奇蹟の海」のべスも自殺行為には違い無いですよね。 でも、殉教と呼んだ方が相応しいように感じられたんです。 彼女は死してプロテスタントの厳しい戒律の地に鐘を鳴らします。 セルマも又同じように感じられてしまう。 彼女に対する友情も愛情も、生に対して強い楔にはならず 天使の歌声のみ、むさぼり飢えていた。 ブロンディさんの"輪廻"で思いだしたんですけど カトリックは仏教と通じる所いくつかありますね。 どうもトリア−監督はカトリックから観てるんじゃないかな〜 (クリスチャンの皆さん、間違ったらごめんなさい !) 彼女が刑場に進むシーンは、ゴルゴダの丘を行く・・・ が、頭を掠めたりして 見当はずれ ? ...第3の目はあらぬ所を観ていたでしょうか? で、ドグマ95 #2の「イデオッツ」 子供をなくしたカレンは偶然、イディオツ(白痴)の振りをして 周囲の人々の偽善を挑発する集団に出会い、共に暮らすようになって..... 自己啓発セミナーのようなヒッピー!のような 芝居がかった集団行動に、戸惑いがあり...... ラストに全て集約され、涙と共に聞くピアニカの素直な響き! トリア−監督の描くヒロイン達 セルマ、べス、カレンは、皆無垢な眼差しを持っている。 「道」のジェルソミーナと同じ瞳 ?
>自身の行為(犯罪)の底には >彼の悪行に対して、救済の心情があったような気がしたのです。 >これは私の願望だったのか、又は見間違いかな〜? これは凄いです maaさんみたいに言ってくれる人がいたら 窒息しないですみますよね 確かに「もう それしかないな どちらもが生きる?方法は それしかないだろう」と思ってましたね。 >「奇蹟の海」のべスも自殺行為には違い無いですよね。 >でも、殉教と呼んだ方が相応しいように感じられたんです。 そうか… それを殉教と言うのか… >彼女が刑場に進むシーンは、ゴルゴダの丘を行く・・・ >が、頭を掠めたりして >見当はずれ ? なるほど… ゴルゴダ関連はいっぱい見てるのに この場合、どうしても肯定的に捉えている気がしなかったんです どうも私は神という対象が捉え切れていませんね っていうか信じてないのかも知れません 私が神仏に祈る場合は自身が自身に向かうっていうか 「見ていて下さい」って気持ちが強いからかも知れません 話しずれますが 社会的地位も教養もある同年代のある女性が 「この映画は大っきらいだ。この監督は根本的に人を信用していない。 二度と見たくない。観た映画の中でワースト・ワンだ」と そりゃぁもうケチョンケチョンでした。 なんか分かる気もするんですよ。 私にとっては「人を信用しない」というのと 「人を信じる」って言うのは同義語なんですよ そういう意味で「ダンサー・〜」にはどこか ストレートさを拒む雰囲気があったんですよ。 だから信じられると言うような。 あれはやっぱり殉教なんでしょうか… もっと強いというか、もっと後ろまで突き抜けた程の キリストからも解き放たれた程の開放だったたような気がする。 って 分かったようなことを言ってはいけませんね? これは映画に対する私見です。 宗教を誹謗しているのでも否定しているのでもありません。 お気を悪くされた方がいらっしゃったらごめんなさい。
繰り返し、ブロンディさんのメールを読んでたら 私の観ていない別の映画みたいだなぁと思われるんですよ。 (同感でしょ?  笑) でもよくよく考えると犠牲は痛みを伴う希望ともとれる。 でも希望は生きてこそが本意でじゃないかな。 それに理性的でもある。 それに比べ、愛するってひとりよがりで感情的ですよね。 この場合、死刑になった母と盲目の母とどちらが 子にとって幸せだか問うてはいないし、そんな事は問題にもしていない。 あくまでもセルマ側の姿勢のみ伺われるようにつくられていませんか? 前々回でも書いたと思いますけど、与えられる内容も相手も 重要ではないんじゃないかな。 トリア−が曖昧にしてるのは 彼女がどれほど与えられるか、与えようとするかの方に重きをおいたのじゃないので しょうか それで、これでもかといくつもの課題(障害)が与えられる。 最後にはマヤの古い宗教のように、もっとも大切な自身の命を差し出したように見え たんですよ。 次ぎの日に太陽が昇るように....... これを、希望とよぶか、犠牲と感じるか・・・ >この時の彼女なんですが 救済とは別に殺意はなかったのでしょうか? >お金は命に替えても取り戻すというような。 >彼女の背を押した力の中に闇(殺意/盲目)はなかったか? 以前お話したように良く憶えていないんですが (それなのに図々しく書いちゃって!?) 彼は最後には自身にも絶望していって 死にたがって(殺されたがって)いたように思ったんですよ。 たぶんに、彼が悔いてほしいと思い入れた、私の願望かもしれません。 とにかく、そんな彼の魂を彼女が救い上げたと捉えたのです。 命を断つという捩じれた形で、泣きながら。 お金を取り戻すためにでもあるけど、それだけではなかったように思いたかった というのが希望的見解なのかな〜 >彼女は自分の中の殺意を見たと思いましたね。 >これが大前提として私に決定されました。 そうか、ここでずーっと私は逸れて行ったのですね。 そうですね、希望は持つ者に豊かな喜びを与えると思います。 そう、自分のためでもある。 遠くから考えれば犠牲もそうには違いないけれど 他者に対して愛を与える、この場合は自身の思い込みであったとしてもなのですが 自身には直接与えられない、たぶん他者が幸せになるに違い無いと想定できる愛の姿 を信じて行動する。 それが善き事と信じて、なけなしの全てを等価交換する。 神の存在、ささえはこんな時にこそ立ち現れるんじゃないか 現れてほしいと、思っているのですよ。  (私はクリスチャンでは有りませんが) >それなら弁護士費用の金額が云々の場面は要らないと思いますが… >弁護士費用をドヌーブが支払う あるいは弁護士費用が無料だったら >それでも躊躇わずに死にゆくでしょうか? 友人の支払う費用はセルマの溜めた「希望」のお金ですよね。 一つの目的以外考えられていませんよね。 「弁護士・・」だったらこの物語はなりたっていませんよね。 これも課題の一つであると思いました。 自分の命と他者(子供)への愛を量りにかける場 これが「なけなしの愛」「最後に与えられる愛」だ決定するという風に。 >ここを軸として魂というか生きる場所が移動する >というか反転すると思うんです。歌う場面が彼女の生きる場所で >ドキュメンタリータッチが虚となるんじゃないかと。 彼女にとって、そうなってますよね。 彼女の視力と交換に (人魚姫のように) 彼女の震える心を支えるるため 虚しい現実では無く、心優しい虚実を与えられていったんじゃないかと 思ったんです。 現実を観ないで済むようにと、神のやさしさと思いたかったんですよ。 >確かに処刑に向かう廊下の場面や処刑後の構図は >ゴルゴダの丘や磔刑の場面を連想させますが >それを虚の構図ととるのは穿ちすぎでしょうか? 彼女を追いやったユダの存在と行動も甘んじて受けたと.... ブーイングの嵐になっちゃう ?   (笑) >列車の二本のレールの間 つまり中間的な視点こそが >トリアーの狙いではなかったかと思ったんですが。 なんてったって人の裏をかくのが好きな奴ですからね。 翻弄されてるのを愉しまれちゃってますからね。 >だから私は彼の思うつぼ?(笑) きっと彼は笑ってんだろーなー 私達のメールを観たら もう大喜びざんしょ! 両方にno!と言うかもよ


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