ぶろんでぃさん: 「オール・アバウト・マイ・マザー」 こちらは日の当たる葉の表側を選択し 移っていくお話だと思いました つまり心が翳らないように生きる場所を選択していく女たちの物語だと思います マヌエラに関して言えば 木の葉が裏返りそうになったら表側の葉へと次々移動して いきます。間違えずに。(そこが凄い 笑) その場所の移動を線路(列車・トンネル)で表していると思いました。 Kiwi: わたしも見ましたよ、オールアバウトマイマザー。 この映画、女性の強さがテーマだと巷ではいわれていますよね。 けど、どうもしっくりこなくていろいろ考えていたのですが、 ブロンディさんのこの解釈はすごく納得できました。 一種のロードムービーであることはたしかですよね。 で、男であるわたしの感じ方をいえば。。。 生物学的には人間の「基本の性」は女なのですが、 このオールアバウトマイマザーでは、その人間の元々の性を通し、 人間が生きている意味を表現しようとしているように感じました。 二人の「エステバン」の父親である「エステバン」が 女装したゲイとして登場させられているのは、 単に多様なセックスの趣味趣向を肯定するためというより、 「血」という見方をすれば人間はみな元々は女であるという意味なのか なぁ、なんて考えていました。 マヌエラが、まるで辛い過去などないかのような あどけなく澄んだ瞳をして、自分には息子がいたこと、 そして彼が交通事故で死んだことを父親であるエステバンに告げたとき、 父が「母のように」涙を流したのが印象的でした。 ぶろんでぃさん: なるほど… 女装したゲイの扱いはそういう意味だったのですか… 女たちの生き方に かなり男性的な視点を感じてしまうのですが ゲイの扱いはその対比として登場させたのかなぁ位に軽く扱ってしまいました。 まあアルモドバルの趣味や娯楽性とばかりには思ってはいませんでしたが… Kiwi: いやいや、あくまでわたしが感じたことですよ。 この映画を見ているうちに、たとえば年老いた美人女優ユマと、そのユ マの付き人をやることになる元トラック運転手の「彼女」を並べたとき、 果たしてどちらが男なのか女なのかを見極めようとすることにだんだん 意義を感じなくなっていきますよね。 これがアルモドバルの目から見た「ジェンダー(文化性差)としての性か ら解放された人々」の姿なんだと思いましたよ。ですから、「登場して くる人物たちがみな男なのか女なのかわからなくする」ための手法とし て、ゲイという設定が使われているのだろうと踏んだわけです。 で、この映画では、そうした現代的ジェンダー社会よりもっと深い部分 に焦点が当てられて描かれているのだと思います。物語がその「深い部 分」に焦点を合わせるきっかけとして使われていたのが、車にはねられ た息子エステバンが流す「血」でしたよね。 ぶろんでぃさん: そうなるとやはりマヌエラの職業も(臓器移植コーディネーター?)今風とばかりに は捉えちゃいけませんよね? 何故この職業なんだろう とイマイチ納得できない部 分もあったのですが 謎が解けました。 Kiwi: そうそう、カトリックが優勢な社会の映画ですから、当然、臓器移植に は頭から否定的な描き方をしていると考えていいのだと思います。 マヌエラは、男と女が文化的に区別されて生きる社会の中では、臓器移 植コーディネーターとして、死んだ人の臓器の摘出を遺族に承諾させる 仕事(Occupation)に就いていて、その給与を糧として、男息子であるエ ステバンと恋人然とした日々を送っていました。 ところが、その息子=男としてのエステバンとの恋人生活は、その生活 を送るための糧であった臓器移植事業に息子エステバンの臓器を捧げる というジレンマで終止符が打たれます。 いわばエステバンの流す「血」が、マヌエラが浸ってきた(男と女が文化 的に区別される)ジェンダー社会の幻想をうち崩してしまったことになり ます。そしてその幻想と交代で現れてくるのが、誰が男で誰が女なのか が判然としない人々の世界というわけです。 というわけで、わたしとしては「臓器移植コーディネーター」という職 業は、男と女が区別されることを当たり前に受け入れなければ生きてい けない現代社会の象徴として使われていたとみました。 「オールアバウトマイマザー」というタイトルはアルモドバルが付けた ものなのかわからないのですが、少なくとも、若くしてこの世を去った エステバンを生んだ、男か女かの区別が意味をなさない人々すべてが、 ここでは「マザー」と総称されているように思います。 ちなみに、父エステバンとマヌエラの息子エステバンはこの世を去った けど、シスターの命と引き替えに先天性エイズを煩う三人目のエステバ ンは、奇跡的にウィルス耐性を獲得して生き延びていくようですよね。 これはジェンダーフリーの、人間がみな自分本来の姿のまま生きられる 社会なら、エイズなんて簡単に克服してしまうはずであるというアルモ ドバルの信念ではないかと思います。 そうだとすると、エイズなどの「現代の不治の病」こそ、「その病を治 すと豪語する現代科学技術からくるストレスがむしろ原因なのではない のか」と疑う文明批判が、この映画の基底には流れていると思うのです が、どうでしょうか。だからここは臓器移植コーディネーター「でなけ ればならない」のではないかと。 ぶろんでぃさん: 「シスターの子エステバンが奇跡的にウィルス耐性を獲得して生き延びていく」 というのも消化できなかったんですよ あの仲間内ではエイズなんて問題ないでしょ? 私としてもぜんぜん問題を感じなかったものですから なんで わざわざそう言うことを言うのかなぁ〜と思ってました。 Kiwi: そうそう。確かに不思議なんですよ。 で、あまりにも唐突だから、むしろここはストーリーのポイントと読む べきだと思うわけです。 具体的には、エイズウィルスが宿るのもやはり「血」なんですよね。 つまり三人目のエステバンが「ウィルス耐性を獲得した」というのは、 「血」の強さ、「血」のしたたかさを表現しているのではないか、と。 要するに、タイトルであるAll about my motherのmotherとは、 (地縁を含む)血縁関係のことを象徴的に指しているのではないかと思い ますね。こういう人間関係が生きている土地を「母なる大地」と呼ぶの に近い感覚です。 この映画ではその「母なる大地」はバルセロナになりますか。 だから我が息子エステバンを失ったとき、 あるいはエイズ耐性を獲得した三人目のエステバンを連れ、 マヌエラは血の求めに応じてバルセロナに向かうのではないかという気 がします。 これは上のことからの推理なんですが、 臓器移植に象徴される科学技術やジェンダー社会を否定するシークエンスは、 スペインが密かに抱える民族対立感情がその背景にあるのかもしれません。 映画に深みが感じられるのもあるいはそのせいかも。